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2014年3月8日土曜日

ロバート・J・ドーニャ、ジョン・V・A・ファイン『ボスニア・ヘルツェゴビナ史』(佐原徹哉他訳、恒文社)

ボスニアの歴史が知りたくて読んだ。ビザンチン帝国、オスマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国と、複数の巨大国家の狭間で、もともとは同質の人々がギリシャ正教徒、ムスリム、カトリックになり、そこに西欧的なナショナリズムがやってきて凄惨な殺し合いになる。なぜこんなことが起こるのか。ナショナリズムの外側は存在しえないのかについて深く考えさせられる。
ユーゴスラビア内戦はそのままヨーロッパの定義を巡る戦争だとジジェクは言っていたけれど、ヨーロッパって一体なんなんだろう。一つの大きな定義は、「トルコじゃない」「ムスリムじゃない」というやつなんだろう。とすれば、1000年経っても基本的思考の枠は変わっていないことになる。あるいは、ムスリムの存在こそヨーロッパの定義に必要だとすれば、ヨーロッパそのものの中にムスリムが否定形の形で含まれていることになる。こんなふうにジュディス・バトラー的に考えてみてもいい。
とにかく、何も共通するものがない共同体は不可能なのか、という問いが込み上げてくる。なんだかわからないけど結構いいやつだよ、とか、笑顔がいいね、とかではダメなのか。ダメじゃないと言い張りたい。それこそが文学の役割なのだから。