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2014年3月11日火曜日

多和田葉子『エクソフォニー』 (岩波現代文庫)

東京外国語大学に多和田葉子さんが講演で来たことがあって、そのとき客席で彼女の朗読を聞いていて度肝を抜かれた。同じ文章の中で日本語とドイツ語が交じりながら対話している。わからないのにわかる。そしてとても楽しい。それはちょうど、ロサンゼルスのバーガーキングでスペイン語と英語を自由に行き交う女の子の話を聞くともなく聞いていた10年前の自分の体験とも似た感覚で、言葉って意味だけじゃないんだな、とあらためて気づかされる。
講演の後の打ち上げは本当に多言語で、ドイツ語、ロシア語、イタリア語が行き交い、本当はしゃべれるのにほとんど誰も英語はしゃべってくれないという、すぐに英語に頼ってしまう僕にとっては教育的かつ少々大変な会だった。 そして僕は、日本語と英語で意志を通じることができたらなんとかなる、という自分を恥じながら、もっとフランス語やろう、スペイン語やろうとこっそり心に誓った。
多和田葉子のこの本は、外語大で僕が体感した衝撃をエッセイの形でしっかり見せてくれている。「人はコミュニケーションできるようになってしまったら、コミュニケーションばかりしてしまう。それはそれで良いことだが、言語にはもっと不思議な力がある。ひょっとしたら、わたしは本当は、意味というものから解放された言語を求めているのかもしれない。」(157)といった言葉が僕に突き刺さる。
日本の常識からさらりと抜け出す多和田葉子の視点も好きだ。「日本人が野蛮人ではない理由は、革靴だけが文明なのではなく足袋も文明なのだという単純な理由からなのだが、そういう考察は省略されてしまって、日本人はお金を持っているから野蛮人ではない、という変な形で傷を癒そうとしていた時代に、わたしはまさに生まれ育ったことになる。」(13) なんて、近代日本の完全な否定だよね。こうした文章を読むと、自分の中に革靴だけが文明だ、という滑稽な信念がいまだあったことに気づいて、くすりと笑い、そしてちょっとだけ楽になる。
共同体論もいい。「あらかじめ用意されている共同体にはロクなものがない。暮らすということは、その場で、自分たちで、言葉の力を借りて、新しい共同体を作るということなのだと思いたい。」  (32)なんて、アレクサンダル・ヘモンが言っていた、ナショナリズムとは違う形での共同体という議論にも通じる。それにしても、生きることそのものが新たな共同体づくりだなんて、多和田さんって本当にかっこいい。