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2014年3月31日月曜日

ゴマブッ子『女のしくじり』(ヴィレッジブックス)

自分らしく生きるというのは絶対的にいいことだ。ゴマブッ子はそういう信念を破壊する。単に自分らしいだけでは、誰にも理解されず、その魅力を受け入れられることはない、と論じるのだ。これは自分らしさ教徒にとっては衝撃の意見なのではないか。だって人に合わせると自分がなくなるじゃないか、と。でも、自分らしさ100%と自分らしさ0%の二択しかないのかな。
「合コンに上下赤いジャージで来た男がいたらどう思う?
間違いなく、そんな男は論外よね? 連れて歩くのも恥ずかしいわよね? そのジャージの素材がいいとかブランドがどうとか、淡々と語られたところでジャージはジャージ。しったこっちゃないわよね?
でも? ジャージの男も、貴女のオシャレなファッションも「その価値が自分にしかわかっていない」という点では同じだと思わない?」(202)
自分らしさを相手がわかる形に翻訳すること。そして世界の喜びを増やすこと。自分らしさなんてそれだけでは独り言でしかない。そのままでは、自分らしさを発揮する場所すら与えられない時点で、結局は0%でしかないのだ。
自分には理解できない他人との相互交流を通して、徐々に受け入れられる自分らしさを増やしていくこと。自分らしさ教徒に社会の存在を教える点でゴマブッ子の著作は優れている。

2014年3月28日金曜日

ゴマブッ子『あの女』(ヴィレッジブックス文庫)

努力すればなんでもかなうと学生時代に頑張り続け、正直に真面目に生きていればいいことがあると信じてきた誠実で純情な女性が、受験も仕事もどうにかなったのに、いざ恋愛という局面になったとき、男という得体の知れない、何をしでかすか予想もできない異文化人を前にして傷つく。どうしてこんなにがんばっているのに愛してくれないの? これでもまだがんばりが足りないっていうの?
おそらくそれは、日本において女性と男性の文化が極端に隔たったまま発達していて、互いの言語に習熟しないと基礎的なコミュニケーションすら不可能だからだ。そこにゴマブッ子が介入する。ゲイである彼は、女性に厳しい言葉を浴びせかけているように見せかけながら、丁寧に男性の論理を女性の論理に翻訳してみせる。ほら、不可解な男性の反応も、こうしたら理解できるでしょ。その愛に裏打ちされた言葉はほとんど菩薩行だ。しかも言葉のフットワークが軽い軽い。
能町みね子さんの本を読んでいても思うが、男女二つの文化をフィールドワークし、双方向に翻訳できるという人材は貴重だ。一つの言語しか知らない人は、他の言語を持つ人の存在すら信じられない。しかもそれが男女の場合、見かけ上同じ日本語を話す日本人、というふうに見えるからたちが悪い。視点の異動こそ笑いと気付きの源である、という人類学的な智恵を実感させてくれる本。

2014年3月27日木曜日

神田橋條治『精神科養生のコツ』(岩崎学術出版社)

頑張ることは無条件にいいことだ、そして上手くいかないのは十分にがんばっていないからだ、という現代日本を蝕む思考法を徹底して破壊する本。これを読んだときにものすごい解放感を僕は感じた。
神田橋による「頑張る」の定義はこうだ。「「頑張る」ということばの意味は、「こころの活動つまり目的のために、道具である脳を含めた身体に無理をさせる」ということです」 (43)。自分が「したい」と思うことより「すべき」と思うことを優先させ続ける結果、気持ちは自分の外側に向き続ける一方、自分の中の感覚はどんどん鈍くなってしまう。
自分でも気づかぬまま、限りない疲労が蓄積されたその先は、もちろん病気が待っている。なぜなら、脳の働きを含めた人間の身体能力は限界があるからだ。資本主義の要求する無限の拡大について行ける人など、この地球上には一人もいない。「「自分を鍛える」などと言っているときに、「気持ちがいい」「気持ちが悪い」の感じを失っていると、やりすぎて心身を痛めてしまうのです」(33)。
そこで登場するのが養生である。養生とは何か。自分の内側の「気持ちがいい」という感覚を掴むこと。そして、「気持ちが悪い」ことをせざるを得ないときも、そのことを意識しながら、どうしたらできるだけ短時間でそれを切り抜けられるか考えることだ。もちろん鈍くなってしまった「気持ちがいい」と感じる感覚を取り戻すにはトレーニングが必要である。具体的には本書を参照してほしい。
体を道具として見て、無理をさせて頑張ることで物事をなし遂げるというやり方には限界がある。むしろ体と対話しながら、「気持ちがいい」やり方を探り続けること。その方がきっと遠くに行けるだろう。
欠点を探すのではなく、できたことを褒め合う。人に愛されようとするのではなく、自分から愛を与え合う。good job!と声をかけ合って生きてもいいじゃないか。自他のあら探しばっかりの人生はもういいよ。もう十分に僕らは頑張ってきたのだから。

2014年3月25日火曜日

矢尾こと葉『頭の休ませ方』(中径の文庫)

最近「養生」という言葉が気になっている。傲慢な頭は体を無視して勝手にグングン考え続けるが、実際には体の一部でしかないので、やっぱり疲労し、勝手にネガティヴになり、やがては行き詰まってしまう。それでもうまくいかないのは考えが足りないからうまくいかないのかと判断して、不毛なループ状態に入る。
そんなときは考えを断ち切ることが必要だ。頭に空白を作ると、外部から五感を通じていろいろなものが入ってくる。体内の感覚が何かを伝えてくる。そこでようやく、きちんとひたむきに考えることで現実を見失っていたことに気づく。
この本にはさまざまな思考の断ち切り方が収録されている。気持ちいいことをしていいんだ、自分の体が喜ぶことをしていいんだ。その気づきはそのまま、自分が身体を持ち、体力も寿命も限界がある存在だということを受け入れることにつながるだろう。
限界内でよく生きること。だから養生なのだ。そして養生とは、無限の成長を指向する資本主義に対抗する思想になり得る。古くさい世界へようこそ。

坂口恭平『TOKYO一坪遺産』(集英社文庫)

どうして人間は地球を作ったわけでもないのに土地を私有できるのか。しかも金さえあれば広大な土地を手に入れられるのか。ルソーは『人間不平等起源論』でそう問いかけた。坂口恭平も問いかける。「この地球上に生まれた人間はそれぞれ皆平等に空間を分かち合うべきなのだが、どうもその根源的な常識は全く無視されている状態である」(179)。こういう、18世紀人と同じ疑問を抱く人は大好きだ。なぜならそれは根源的な問いだからだ。
一方で、ジョン・ロックは一見、土地の私的所有を認めているような感じがある。でも実際に『市民政府二論』を読んでみれば、彼は自分が耕して、自分が食べるための作物を作るだけの土地の私有を認めているにすぎない。
しかし、資本主義社会はそうは運営されていない。もっと多くの仕事、もっと多くの金、もっと多くの土地を持った者が評価される。僕らの体力も人生も、太古の昔から限界があるのに。「有限の世界で、物を作り続けることには限界がある。人間の数よりも家の方が多いというのはやはりおかしいのである。しかも、そこは値段が高くて住むことのできない人もいる。家は余っているにもかかわらず、人がそこを利用できないのである。人の住む場所が問題になっているのに、巨大な野球場があること自体がそもそも不思議な現象だと僕は思うのだが」(22)。
こういう古くて新しい、至極まっとうなことを、わかりやすい言葉で言う人が評価される時代がきてよかった。本質について自分の言葉で語ることの力を坂口恭平に教えてもらった。

2014年3月18日火曜日

坂口恭平『モバイルハウスのつくりかた』(竹書房)

坂口恭平『モバイルハウス、三万円で家をつくる』 (集英社新書)がすごく面白かったので、そのDVD版であるこれも見てみた。いやあ、いいなあ。見ながらずっと笑顔になってしまった。隅田川の鈴木さんや多摩川の船越ロビンソンなど、自力で家を建ててきた猛者が丁寧に坂口さんにやり方を教えてくれる。大人が本気になって秘密基地を作っているなんて、なんだか自由だ。土地を買わずに自力で家を建ててしまうということの思想的な意義も大きいけど、何より世代を越えた愛情と知識のやり取りが気持ちいい。坂口さん、いい青年じゃないか。

2014年3月17日月曜日

江國香織『江國香織とっておき作品集』(マガジンハウス)

収録されているデビュー作の中篇「409ラドクリフ」がとにかく素晴らしい。舞台はアメリカの大学で、日本から留学している女性とルームメイトのハンガリー人、そこに恋愛相手のナイジェリア人などが絡む。作品に流れている雰囲気、匂い、感覚は完全にアメリカで、実は江國香織は日本語でアメリカ文学を書いて作家になったのだということがよくわかる。彼女はこの作品でフェミナ賞を受賞した。
お互い日本に恋人がいるのに、異国での暮らしの寂しさに耐えきれず求め会ってしまう男女なんて、ジュノ・ディアス「もう一つの人生を、もう一度」の主人公が語る名言「どんな愛もこの海を越えることはできない」を思わせる。他にも、人種を越えた困難な愛、国籍を取るための偽装結婚、日本からやってきた人が過度に日本的に見えて少しひいてしまう感じなど、アメリカに住んだことがある人にすればどれも自分で感じた、あるいは見聞きしたことはあるようなトピックが次々出てくる。僕も読みながら、ロサンゼルスに住んでいた10年前の感覚に戻ってしまった。
今の洗練された江國香織とはまた違う魅力が味わえる。読者により入手しやすいかたちで再刊されることを強く願う。

2014年3月16日日曜日

坂口恭平『モバイルハウス、三万円で家をつくる』 (集英社新書)

いやあ、面白いね。坂口の体が動くと風景が違って見えてくる。たった3万円で家を作ると決意して多摩川の河川敷に行けば、ロビンソンさんという名の長老が現れて、凄まじい智恵を伝授してくれる。動いて、出会って、教わって、作って、考える。フィールドワークものになると坂口恭平は無敵だ。
ロビンソンさんの「なんでも簡単に買うのではなく、自分でつくったら〇円で手に入るし、好きなようにできるから楽しいでしょ」 というのは至言である。自分で作り、余ったものはどんどん人にあげてしまう。人間関係こそが財産。
ここにはレヴィ=ストロースのブリコラージュも、マルセル・モースの『贈与論』もある。「人が欲しがらないものを欲しがることこそが、寄生しない自由な生活を実現させる。」(116)なんて、まるで今西錦司の棲み分け理論ではないか。坂口の本を読むと心の風通しがよくなる。

2014年3月15日土曜日

坂口恭平『坂口恭平躁鬱日記』(医学書院)

強烈な文章が目白押しだ。これは坂口恭平の最高傑作なのではないか。2013年4月から7月までのほんの四カ月の日記なのだが、意識の流れのまま書いてある。読んでいて自由な気持ちになる。娘のアオちゃんと妻のフーに支えられ、彼女たちとの関係に多くを学びながら坂口恭平が生き抜いていくリアルな記録だ。子供の力ってものすごい。
もちろん躁状態の激しさと鬱状態の辛さは凄まじい。作中では主に薬物療法のみを行っているのだが、認知療法や食事療法など、他のやり方も併用したらいいのではと勝手に思ってしまった。こんなに面白い人に死なれたら困る。
医学書院の「シリーズ・ケアをひらく」はとてもいい。澁谷智子さんの『コーダの世界』も素晴らしかった。こうした本にこそ、僕は今、文学を感じる。

2014年3月14日金曜日

永井一郎『朗読のススメ』 (新潮文庫)

波平さんの声で知られた永井一郎の名著。スタッフの評価も観客の評価も忘れて、リラックスしながら、ただひたすら伝えたいイメージに集中する。そしてそれを繊細に表現する。「とちりたくない。上手に読みたい。笑われたくない。ほめられたい。感動させたい。自分、自分、自分。自分の欲望しか見えない状態。これではプレッシャー地獄です」(24)。自分地獄から出たとき初めて芸の世界が開けてくるのだ。
これは朗読だけでなく、翻訳にも、執筆にも、いや、どんな仕事にも当てはまることなんじゃないか。深いシンプルさが心を打つ。「自分を捨ててください。よいものも悪いものもみんな捨ててしまえばいい。必要なものはいつでも取り戻せます。」(59)もはや禅だ。我執の断捨離だ。
「技術は手に入れろ。手に入れたら忘れろ。」(157)は至言である。まさに現代の花伝書ではないか。

2014年3月13日木曜日

エーリッヒ・フロム『愛するということ』(鈴木晶訳、紀伊國屋書店)

凄まじいほどの名著。みんなどうしたら愛されるかばかり考えているが、本当は愛することが大切だ。そして愛することには努力と訓練が必要である。こうしたフロムの主張に驚愕する。だったら、愛されヘアもモテ仕種も金も地位も名誉も全く関係ないことになるではないか。現在の資本主義を形作っているものすべてを否定し尽くしたあとに残るのが愛することだというのは、もはや革命運動だ。
結局のところ僕も、自分の価値を高めることでより多く愛されたいという悲しいエゴマニアでしかなかったと思う。そんな自分の壁を乗り越えることができるのか。フロムの言葉がぴったりと心に寄り添ってくる。どうして今までフロムのすごさを誰も教えてくれなかったのか?

2014年3月12日水曜日

スーザン・ソンタグ『反解釈』(ちくま学芸文庫)

ものすごく厳密に、ぐうの音も出ないほど対象を追い詰めていく作家や批評家が僕は大好きで、なぜだかそれは女性が多い気がする。たとえばマーガレット・アトウッドやジョイス・キャロル・オーツなど、人のずるさや自己弁護を呵責なく暴く作家たち、スーザン・ソンタグやハンナ・アレントなど、凄まじい鋭さで徹底的に悪を論じきる批評家たちで、読んでいると本当に気持ちがいい。男らしいという言葉はこういう人たちのためにあるのではないか。
ソンタグの『反解釈』は、「キャンプについてのノート」という論文がいい。現代における不自然の美学について論じたこの文章を読んでいると、アンディ・ウォーホルの映画の感じとかが甦ってくる。僕はこういうものが好きなんだな、と素直に思える。なまじっかなポストモダンの理論より、よっぽど現代の芸術のあり方をしっかりと掴んでいる。ジョージ・ソーンダーズやジェフリー・ユージェニディスなんかの現代アメリカ文学を読む上でもすごく役に立つのではないか。

2014年3月11日火曜日

多和田葉子『エクソフォニー』 (岩波現代文庫)

東京外国語大学に多和田葉子さんが講演で来たことがあって、そのとき客席で彼女の朗読を聞いていて度肝を抜かれた。同じ文章の中で日本語とドイツ語が交じりながら対話している。わからないのにわかる。そしてとても楽しい。それはちょうど、ロサンゼルスのバーガーキングでスペイン語と英語を自由に行き交う女の子の話を聞くともなく聞いていた10年前の自分の体験とも似た感覚で、言葉って意味だけじゃないんだな、とあらためて気づかされる。
講演の後の打ち上げは本当に多言語で、ドイツ語、ロシア語、イタリア語が行き交い、本当はしゃべれるのにほとんど誰も英語はしゃべってくれないという、すぐに英語に頼ってしまう僕にとっては教育的かつ少々大変な会だった。 そして僕は、日本語と英語で意志を通じることができたらなんとかなる、という自分を恥じながら、もっとフランス語やろう、スペイン語やろうとこっそり心に誓った。
多和田葉子のこの本は、外語大で僕が体感した衝撃をエッセイの形でしっかり見せてくれている。「人はコミュニケーションできるようになってしまったら、コミュニケーションばかりしてしまう。それはそれで良いことだが、言語にはもっと不思議な力がある。ひょっとしたら、わたしは本当は、意味というものから解放された言語を求めているのかもしれない。」(157)といった言葉が僕に突き刺さる。
日本の常識からさらりと抜け出す多和田葉子の視点も好きだ。「日本人が野蛮人ではない理由は、革靴だけが文明なのではなく足袋も文明なのだという単純な理由からなのだが、そういう考察は省略されてしまって、日本人はお金を持っているから野蛮人ではない、という変な形で傷を癒そうとしていた時代に、わたしはまさに生まれ育ったことになる。」(13) なんて、近代日本の完全な否定だよね。こうした文章を読むと、自分の中に革靴だけが文明だ、という滑稽な信念がいまだあったことに気づいて、くすりと笑い、そしてちょっとだけ楽になる。
共同体論もいい。「あらかじめ用意されている共同体にはロクなものがない。暮らすということは、その場で、自分たちで、言葉の力を借りて、新しい共同体を作るということなのだと思いたい。」  (32)なんて、アレクサンダル・ヘモンが言っていた、ナショナリズムとは違う形での共同体という議論にも通じる。それにしても、生きることそのものが新たな共同体づくりだなんて、多和田さんって本当にかっこいい。

2014年3月10日月曜日

『孫子』(町田三郎訳、中公文庫)

中国の古典っていいよね。言葉が簡潔で内容が深くて。『孫子』なんてすぐ読み終わってしまうけれど、すごい洞察がいっぱいある。
戦争がうまい人は勝っても派手ではないから「知恵者としてももてはやされず、勇者のいさおしも口にされることはない。」(29)なんていい。褒められるうちは大したことないのか。
「将軍がおずおずとひかえ目な口調で兵士に話をしているのは、兵士の信頼を失ってしまっているからである。しきりに褒賞を与えているのは、苦慮しているのである。しきりに罰しているのは、困惑しているのである。」(74)なんて、教育論としても読めそうだ。

2014年3月8日土曜日

ロバート・J・ドーニャ、ジョン・V・A・ファイン『ボスニア・ヘルツェゴビナ史』(佐原徹哉他訳、恒文社)

ボスニアの歴史が知りたくて読んだ。ビザンチン帝国、オスマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国と、複数の巨大国家の狭間で、もともとは同質の人々がギリシャ正教徒、ムスリム、カトリックになり、そこに西欧的なナショナリズムがやってきて凄惨な殺し合いになる。なぜこんなことが起こるのか。ナショナリズムの外側は存在しえないのかについて深く考えさせられる。
ユーゴスラビア内戦はそのままヨーロッパの定義を巡る戦争だとジジェクは言っていたけれど、ヨーロッパって一体なんなんだろう。一つの大きな定義は、「トルコじゃない」「ムスリムじゃない」というやつなんだろう。とすれば、1000年経っても基本的思考の枠は変わっていないことになる。あるいは、ムスリムの存在こそヨーロッパの定義に必要だとすれば、ヨーロッパそのものの中にムスリムが否定形の形で含まれていることになる。こんなふうにジュディス・バトラー的に考えてみてもいい。
とにかく、何も共通するものがない共同体は不可能なのか、という問いが込み上げてくる。なんだかわからないけど結構いいやつだよ、とか、笑顔がいいね、とかではダメなのか。ダメじゃないと言い張りたい。それこそが文学の役割なのだから。

2014年3月7日金曜日

内田樹・中田考『一神教と国家』 (集英社新書)

びっくりするほど面白い。それは知らず知らずのうちに、ヨーロッパ中心主義、キリスト教中心主義が僕らの主観の中に忍び込んでいるからではないか。イスラムやユダヤ教から見てみるとまた世界が違ってくるのを体験できるのがいい。
内田樹がレヴィナスについて語っている「一神教とは、要するに寡婦、孤児、異邦人があなたの家の扉を叩いた時に、扉を開き、飢えた者には食べ物を与え、裸の人には着る物を与え、屋根のない人には一夜の宿を貸すことだ。これが信仰のアルファであり、オメガである。そう言うのです。」(88)という言葉に心が震えた。弱き者の生存を守る、もう一つの倫理的なグローバリゼーションは可能かという問いは重い。
現行のグローバリゼーションに対抗しながら、身体感覚や皮膚感覚を重視しながら、生身の信頼関係を基礎に小さな共同体を造る、というアイディアも素晴らしい。

アレクサンダル・ヘモン『我が人生の書』

切なすぎて心が引きちぎられそうになる本。いずれも優れた短篇集や小説を発表してきたヘモンにとっては最初の回想録である。最終章「水槽」(The Aquarium)で、幼い娘の死を描いたシーンにはまさに言葉を失ってしまう。
もちろんいつものヘモンらしく、ユーモアにあふれた、心温まる部分もいい。シカゴで様々な国から来た人たちが草サッカーに興じるエッセイもよかった。ヘモン作品の背景を知る上でも最高の書物だ。
Aleksandar Hemon. The Book of My Lives. New York: Farrar, Straus and Giroux, 2013.

2014年3月5日水曜日

内田樹・中沢新一『日本の文脈』(角川書店)

やっぱりこの人たちは面白い。思いつくままに会話を楽しんでいるだけなのに、いいアイディアがどんどん出てくる。まさにワークショップの鑑。きっとお客さんの脳味噌もぐんぐん動いていたことだろう。
二人に共通しているのは、近代の人間がパッと頭で考えたことなんて大したことない、という認識で、そこに自然や身体や古代からの生活感覚、そして超越的な存在が言及される。コントロールできないものの前で謙虚になることこそ本当の知性なのだろう。本当に近代の人間って、なんでこんなに思い上がっているんだろうね。
キー概念は贈与で、返しきれないものをいただいた、という感覚が人間を結びつける、という指摘が心に残る。
久しぶりに、人類学的な視点の喜びを感じることができた。なにより、 二人とも人を読書に誘う力がすごい。さあ、モースを、レヴィ=ストロースを、そしてレヴィナスを読もうではないか!

毎日新聞にブコウスキーについて書きました

3月4日付けの毎日新聞にブコウスキーについて書きました。
『くそったれ! 少年時代』や『勝手に生きろ!』などやんちゃな自伝的作品で知られるブコウスキーですが、その裏には幼少期に父親から受けた虐待の影響が深くあるようです。ただかっこよくて面白い、というだけではなく、作品の奥にある深い悲しみが見えてくると、より彼の著作が愛おしくなってきます。